多くの人の予想を裏切り世の中は滅亡せず
2013年に突入しようとしております。

今年も大変お世話になりました。
来年もどうぞよろしくお願い致します。

ご挨拶だけではお前、年1の更新になってしまってるのに、
あまりにも愛想がなさすぎる。



ということで、今年は編集裏後記を拡大版にしてみました。
少しばかりお付き合いください。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

12月16日。
選挙が行なわれていた。
そもそも選挙制度自体に疑問。



民主主義で平等を主張するのはいいが、
政策を何も理解できてない盗人の2票に
政策をすべて理解する良識ある人の1票が負ける。
これはとうてい理解できない。

その前提を持つ人間が、各党の主張に耳を傾けてみた。
実なき言葉とはこのことか。
まったく響いてこない。
実行なき言葉遊びには付き合いきれない。

2009年の年末挨拶で書いてある様に
やはりヒトラー現象がにおいはじめた。
選挙プロパガンダに操作され信仰してしまう人が多いと聞くが、
はたしてどれだけの人が中身となる政策を理解しているのだろう。

そして今、各党が分かりやすいとされるフレーズを
CMで連呼している。



その類いと構造上は同じで、よく聞くフレーズ。


2012年世界は滅亡する。

ここ数年メディアでよく見かけたフレーズだ。
日常の世界ではこういう科学的な因果関係のない
トンデモ話に溢れている。
特に不況になると、人の不安心理が上昇し需要が増える。
多くの人は、これを都市伝説としてあざ笑い楽しんでいる。

しかし、本当に笑っていられる状況にあるのか?
選挙プロパガンダに操作され信仰してしまう構造と同じ事を
自覚できているのだろうか?

都市伝説のトンデモ話をあざ笑っている人間が、
科学的因果関係のない票を取りたいだけの
行動なき選挙演説を信仰し
実は、あざ笑われているのは、
当の本人だったという事はめずらしくない。



こうした科学的因果関係がないように見える「信仰」について
ノーベル物理学賞受賞者である
素粒子物理学者のマレイ・ゲルマンは
「われわれは規則性をランダム性と間違える場合と、
その逆の場合という二種類の過ちを犯しやすい」と指摘している。
もちろんランダム性と規則性をまちがえる事は
科学において許されない。

しかし、ランダム性には芸術や神話がある。
芸術や神話はただのランダム性ではなく、
[偽りの規則性]を持っているから、
それが世界を構造化し、世界に秩序をもたらし、
世界を理解可能なものにするためのシステムとして存在する。

その観点から言えば、科学的因果関係のない[信仰]は、
ただのランダム性か[偽りの規則性]を持つランダム性かを
認識した上で[信仰]すべきだ。

しかしながら、現実的に多くの人にとって
一つ一つの選択に対してすべてランダム性か
[偽りの規則性]を持つランダム性かを認識し区別する事は困難。

よって科学的因果関係のない[信仰]を
まずは正しくないという視点から見るのが妥当である。



だが現実はむしろこれとは逆で、
科学的因果関係のない[信仰]を素直に信じてしまう人が多い。
だからこそ、実のない言葉遊びがもてはやされる結果となる。
つまり、聞き手のレべルがあまりにも低い事が問題なのだ。
もちろん、発信媒体の影響力が大きければ大きい程、
責任も上がるのは必然的であり、
物事の肯定的側面と否定的側面の
両面提示(two-sided arguments)をしっかりと意識すべきだろう。
しかし、それにも増して受け手のレべルが
あまりにも低くなっていると感じる。

決して弱者のルサンチマンの類いではないが、
実の世界で毎日コツコツ頑張って働いている人よりも
言葉遊びやパフォーマンスをうまく立ち回れる方が
評価される世の中に違和感がある人はいないのか。

仮にそうだと仮定するなら、
学ぶ事を放棄して言語化する努力をせずに、
ただやみくもに毎日コツコツ頑張ればいいのかというと
それも違うだろう。
二元論を主張したいわけではない。

それにしても、あまりにも言葉遊びや
パフォーマンスが先行しすぎてはないか。
あまりにもだ。



さて独り言はこのあたりにて終わり。
人生は、「私」と折り合いをつけながら事を成すには、
あまりにも短い。
「無私」とはよく言ったものだが、
禅の訓練を受けた坊主であるまいし、
多くの人が「無私」になるのは容易い事ではないだろう。
しかし、あえて「無私」までいかず「私」は、
「私」が思っている以上に
意識の「私」がしめる割合が実はないに等しいという事実を
受け入れた上で、私と「私」の目的・目標が非常に明確にある。
残された時間は少ない。

今日もやるべき事をやる。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
編集後記
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

皆さんにとって2012年はどんな年だったでしょうか。
個人的には、今までで一番忙しく勝負の年でした。
とりあえず、7ヶ月19日かけた勝負に勝ったのはいいですが、
それはそれで、今度はその準備やらで、
てんてこまいの年末年始になりそう。
嬉しいというよりも、ほっとした感情の方が強かったですね。
「さぁて、いよいよはじまったぞ。」
そんな感じであります。

しばらくは勝負という名の実行が続きそうですね。
実行には過去との決別がつきものであり、
変革期である今はそれが有効な時期。
事業者であるならば、表面的な「承認」ではなく、
成果という「実」が問われるべきでしょう。

しかし本当に変化の流れは早く、ここ最近の価値観の転換は
たとえ経済的余裕をもつ人であれ
多くの選択肢を保有する人生設計可能な私と「私」の維持が
できるか否かの岐路となるのではないでしょうか。
誠実であればあるほどそんな気がします。
ここで書けないのが残念ですが、
転換の本質を掴んでる人とそうでない人の未来は
本当に早いスピードで二極化していくだろうなと感じています。

そもそも、受け入れようと、真っ正直に考え学び悩み抜き
そのプロセスという過程を通り、
受け入れ、なおかつ行動できる者、
そのものが希有ですからね。

希望なき閉塞感が漂うと言われている今の時代に、
この先(今を含む)が楽しめる状態にある人は、
時代の方向性をしっかりと捉え、
決してトンデモ話に流される事なく
それに向けての実行を淡々と積み重ね続ける者への
ギフトなのかもしれません。

さて、私たちは?
強引ではありますが、この問題定義で今回の記事をしめます。
続きは機会があれば、また。

私ごときのレベルではありますが、
またマイペースな更新をしていきたいと思っております。
来年もどうぞよろしくお願い致します。



2012年12月28日
進藤慈久

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
編集裏後記「拡大版」
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

役割という事で、今年も理屈を色々と書いてきましたが、
はっきりと一言でいうと
「世の中、中2病が多いから気をつけてね」という事です。



それは、今あなたがどんな世界に身をおいていようが
例外はほとんどないでしょう。

ここで言う中2病とは、最近の一般的な例では
男子が中学二年頃に取りがちな痛い行動と言う事ですが、
簡単に言ってしまえば、
「俺にとってこれが正解だからお前もこうしろ」タイプです。

ついでに言うと「かまってちゃん」も。
承認不足の「もっと褒めて」「もっと私を見て」タイプです。

こういうタイプは、要は気をひかすために必死なわけで、
目立つ行動であったり、分かりやすいフレーズであったり、
容姿を磨いたりするため、
感覚的に無意識に応援してる人も多いでしょう。

だからこそ、逆に「そういう人たちには気をつけろ」と言い放つ
インテリ中2病も存在するわけです。
何を今更ですが、共通の敵をつくるのは洗脳の基本ですからね。

基本的には、俺はこれだけ分かってるんだぞタイプが多いので、
ここでは「インテリ中2病」と呼ぶ事にします。



ただ、こういった「中2病」や「かまってちゃん」や
「インテリ中2病」もやりたくてやってるわけじゃなく、
なりたくてなったわけじゃない。



それぞれ、言えない過去の問題を抱えていたり、
また多くの場合はそれが無自覚である場合が
多いため問題なんですよね。

簡単に言うと、未解決な問題があり、
それに対して目をつぶってるか
もしくはなかった事にしてふるまっているが、
心の根の部分にそれがひっかかっていて
ふとした時にそれが原因で問題が起きるが、
本人は原因をまったく違う事と勘違いしていたりする。
見たくないから、違うんだけどそう思っていたいという場合も。

私の場合は、2007年に著書「高卒社長」で書いた通り
「答えなんて十人十色」だと思っているので、
まあ向き合いたい人は向き合って
向き合いたくなければ向き合わないでいいと思う人間です。
人間だから向き合いたい時もあれば、
向き合いたくない時もあるでしょう。

世の中無常ですから、万人にあてはまる答えなんてないわけで。



しかし、決して完全には分かりあえない事が分かっていても
語り続けること、そのものが倫理。

とは言うものの、主体的に向き合える責任ある人は別として
無責任に他力本願で実行する覚悟もない人に対して
語り続けたところで…という一面もあり、難しいところですね。

じゃあ、お前はなぜこういうこと書いてるの?
となると思うんですが、これに関しても、
私は偶然という重なり合いによって、
たまたま、経営者をやらせていただいており、
毎年毎年最高税率で税金も国に納めさせて頂いておりますが、
それって当たり前ながら私だけの力ではないわけで。

勘違いされてる人も多いと聞きますが、
今年もそういった見えないけれど支えて頂いた人に向けて
届く人には届くだろうという思いで
年1回のご挨拶にと、筆をとらせて頂いた次第であります。

さて、このあたりでダラダラと長過ぎる編集裏後記を終えます。
駄文にも関わらず、
最後までお付き合い頂きましてありがとうございました。